2014年5月31日土曜日

安岡正篤先生の六中観

これもまた、机の掃除中に出てきた   
言葉。昔、教えて頂いた時は、
まったく理解が出来なかったのが
不思議なことにこの年になり、
味わいがあり、すごくいい!

安岡正篤先生の六中観と言う
言葉。

死中有活、苦中有楽
忙中有閑、壺中有天
意中有人、腹中有書

「死中、活有り」
本当にいき詰らなければ、道は
開けない、死んだ気になって
頑張れば開けない道はなく、
活路が開かれる事。
⇒ 死ぬほど頑張れば、壁を越えることができて、越えてみると、
  まだまだいける!と思えてしまうのである。壁は、自分が作って
  いるのかもしれない。

「苦中、楽有り」
苦楽は相対的なものであり、苦の中に楽があり、楽の中に苦があると言う意味。
すなわち、別の角度から見る余裕がなくてはならい事。
⇒ 年を取ると意外と、許容範囲が広くなり、これがなかなか、いける。

「忙中、閑有り」
閑ができたら勉強しようと考えていたら一生できない。閑は忙中にあってこそ閑
であり、そうでなければ本当の閑とはいえない。
⇒ まったくその通りである。

「壺中、天有り」
「漢書」方術伝・費長房の事故によるもので、俗世間の中で生活していても
自分だけの世界、別世界を持ち、それを深めることの大切さを言う。
⇒ 時たま、空を見上げてみると、この広い宇宙の中で生かされているのを
  感じるのである。だから、やれる!できる!あきらめない!のである。

「意中、人有り」
常に心の中に私淑する偉人や共に仕事をしたいと思う人、また人に乞われれば
推薦できる人があり、それら心友と日々の交流を大切にすること。
⇒ 出会いは、命。人は、人との出会いがないと成長しない。その出会いの人
  を大切にする。

「腹中、諸有り」
腹の中に書、すなわち信念・哲学があり、座右の銘、愛読書を持っている事。
⇒ 価値観、自分の価値観、ベクトル、そして支える言葉をもつのである。

六中観は、あまりにも、漢字だらけで、意味を変えるても理解できなかった、
特に『死中有活』は、何で死んだ中から活動するのだーーと、
当時は、物事を深く考えていなかった。今はこの「死中有活」が、一番大切に
思う。この考えは、易経の坎為水(かんいすい)の卦と似ている。

苦しみの時は、心をしっかり持ってその時を通っていく
自分の真心が自分を支え、苦しみの時を耐えて
進んでいくことができる。(使命、志とも思う。)

苦しみの時を通っていくには、水の性質に習うこと、水は柔らかい性質を
持ち、丸い容器に入れたら丸くなり、流れるところがあれば、障害物に
ぶつかっても、とめそなく流れていきます。

苦しくて食べれなくても、生きるために必要なものを最低限口に入れること。
ほんの少しずつでも進み、立ち止まらない、もがかないことが大切。
必ず通りぬけると力強い心を持つこと。

これら六中観を体得すると、人間が大きくなると
感じる。今改めて思う!素晴らしい言葉、教えである!

2014年5月30日金曜日

安岡正篤先生の傳家寶(でんかほう)

私の大好きな言葉が、机を整理
していたら、出てきました。
安岡正篤先生の傳家寶(でんか
ほう:家の宝として傳つたえる。)

十年前頃か? 勉強した頃は
良く理解できなかったこの言葉
今は、本当に身に沁み渡る。
すごく、ズシンと来る言葉です。


一。我が幸福は祖先
   の遺恵。子孫の
   禍福は、我が平生の所行にある。

二。平生己を省み、過ちを改め、事理を正し、
  恩義を厚くすべし。百薬も一心の安きに如かず。

三。良からぬ習慣に狎(な)れるべからず。
  人生は、習慣の織物と心得るべし。

四。成功は常に苦心の日に在り。
  敗事は多く得意の時に因(よ)ることを覚るべし。

五。事の前に在りては怠惰、事に当たっては
  疎忽(そこつ)、事の後に於いては安逸
  (あんいつ)。是れ百事、成らざる所以
  (ゆえん)なり。天才も要するに勤勉あり。

六。用意周到なれば機に臨んで惑うことなし、
  信心積善すれば、変に遭うて恐るることなし。

七。不振の精神、頽廃(たいはい)せる生活の
  上には、何ものをも建設する能わず。
  永久の計は一念の微(び)にあり。

努力、それも正しい努力を続けること、人生は習慣の織物。
良い習慣を続けることが、大切。
本当に、真面目にコツコツと成長したいと思います。

2014年5月29日木曜日

アメリカのプロムと日本の成人式

先日アメリカの友人から、長男が、   
プロムに参加したと嬉しそうな
メールが来た。映画の中で、見る
プロムのシーン、私のアメリカ1年
間の短期留学では、経験できな
かったプロム。

日本の成人式のイベントにあた
り日本の両親が成人式に力を
入れるようにアメリカでは、この
プロムに、親も力を入れる。
どこの親もやはり、子供の成人
大人になってくれることは、嬉し         
くほっとするのだろうと、友人の
家族の写真を見て思った。 
出会って早くも19年になる、出会いは、
アメリカメリーランド州のゴルフ合宿の
クラスメイト。同じニューヨーク州に住ん
でいた私に親切にしてくれた。
ニューヨーク州の市警だったことも
あり、色々と助けてもらった。

プロムのパーティーは、大人の仲間
入りの練習にもなる。男性が女性を家
まで迎えに行く、そして一緒に会場に
向かう。

いつの頃から大人と認められるのか?
世界192か国の内、約170か国が、
18歳から選挙権を与えられるようで、
日本の20歳というのは、世界でも遅い
時期のようだ。

プロムは、プロムナード(舞踏会の意味)の略語で、高校で学年の最後に行われ
るダンスパーティー。昔は男の子、女の子ペアでないと参加できなかったが、この
頃は女の子おおぜい、男の子大勢で参加可能となっているようだ。
女の子はドレス。男の子はおもにレンタルのタキシード。
そして女の子は腕輪のお花と男の子の胸にさすお花が一緒で、男の子は女の子
に腕輪のプレゼントをする。女の子は何日も前から美容院の予約(お金がない子
は友人同士で髪の毛を綺麗に結う)。

日本の成人式の日に、パーティーまで行うことができて、男性が女性を誘うような
ルールなどが出来たら、恋愛塾や異性に声を掛ける練習にもなるのに、、

結婚相談所の仲人として、お見合いのお手伝いを
しながら思うのは、本当に、自分を出すのが下手な
方が多い。すごく良い方であるのにもったいない!と
本人には言うが、大人になればなるほど、自分を出す
のがすごく難しくなるようだ。プロムのパーティー企画
はすごく良い企画と言うか、風習に思える。

2014年5月28日水曜日

感謝の手紙の中にあった覚悟と使命

先日の披露宴での新婦様の感謝   
の手紙で、泣きました。
半年間の打合せと準備期間が
走馬灯になったのもありましたが、
一番感動したのは、新婦の
決心でした。神社に
嫁ぐ事、そして、嫁い
だ自分の使命までを
感謝の手紙の中に
入れられて話されて
いまし。本当に、素敵な方           
だなと思いました。

新婦が、新郎の家に嫁ぐと言う
のは本当に覚悟がいることなの
だと改めて、身が引き締まった
思いでした。

恋愛の気持ちで「この人と一緒に
生きていきたい」と言う気持ちを
二人が抱き、結婚に進む。
その結婚の先には、やはり両家
、特に嫁がれる花嫁には、その
新しい家の一員としてのしきたり
から新しい環境に慣れていか
ないといけない。
神社だけでなく、家業、代々と
商売をしている家に嫁ぐという
のは、嫁と姑の関係だけでなく           
その仕事=家庭=家族と言う
感じで夫婦二人だけの環境
から、家族全員をとりまく全て
の方々もひっくるめての環境
に慣れないといけない。

かなりの覚悟が必要なのだと
この六か月の打合せで感じて
いたことでした。その覚悟を
乗り越えて、感謝の手紙の中に
将来の自分の使命をしっかりと
書きしるし、関係者皆様の前で
宣言できている。参列した方々
から、両親から、親戚から
全ての方々が、感動したと思い
ます。

感謝の手紙に本当に感動しました。



2014年5月27日火曜日

思いやりを空回りさせないために

思いやりを空回りさせないための秘策と言う言葉を知った。良かれと思い、行う行動に
空回りという時がある。 空回りした場合は、おせっかいとも、責任感がないとも
相手に取られるので、とても難しいものである。

論語の中に、この思いやりについて、書いてある、

子曰く、参や、吾が道一以てこれを貫くと。
曾子曰く、唯(い)と。
子出づ。門人問うて曰く、何の謂ぞやと。
曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ。

孔子が言う、学問の方法は数多くあるのではんく、世に処し物に応じる
のに、ただ一つだけでこれを貫くのである。
曾子が言う、はいその一つだけです。
孔子が出て行った後、曾子の門人が、孔子先生のおっしゃった唯一つ
というのは、なんですか?
曾子が言う、孔子先生の道は忠恕だけである。
別に他の方法はないと言う意味です。

忠恕(ちゅうじょ)、忠とは衷心(ちゅうしん)よりの誠意懇情を尽くし、
事に臨んで親切を第一とすることを言う。また恕とは、ひらたくいえば
「思いやり」と同じ意味で、事にあたって先方の立場になり、先方の心理状態
になって考察してやることである。
ただし忠と恕とは個々別々のものではない。忠と恕とを一つにした
「忠恕」と言うものが、孔子の一貫した精神であると同時に『論語』を貫く
精神である。

恕は、この漢字に表れている、「心の如く」、己の心の如く相手に施す、
「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」である。つまり、
「己が立たんと欲すれば人を立て、己達せんと欲すれば人を達す。」
この恕の精神を貫く人を仁者と呼ぶ。仁者に敵なしとはこのことになる。

人の世で生きるために何よりも大切なものは忠恕の精神すなわち
仁道であるが、この精神を実行しようとするためには、知略をともなわなければ
ならない。知略のともなわない精神だけでは、ものにならず、知略は、忠恕の
精神が中核となって活動するさいの欠くことのできない助手である。

知とは知恵のことで、事物を観察して理非を判断する力を言う。この判断力が
なければ、いかに忠恕の精神を行なおうとしても、これをいかに処理すれば
よいか見当がつかなくなる。
また略がなければ、忠恕の精神を実行しても、かえって他人に迷惑をかけるような
結果になるものである。略、臨機応変の工夫が必要である。

知略だけがあって忠恕の精神に欠けた人の行動は、いたずらに恩威
(恩恵と威光)だけを人に臨み、少しの温情もなく、また正直なところがないから、
人心も社会も動かすことはできない。

人の役に立とうと、その人の気持ちに立って行動することは、とても大切で
ある、しかしその場面において、事物の観察を深く理非して判断をする
必要がある。そうでないと、忠恕の精神においてもできることできない事
が発生し、やってあげると喜ぶとわかるけれども、やる場合には、
きっちりとこのような場合もあるので、理非、出来る出来ないまでもすべて
説明をして忠恕の精神を貫く、必要がある。

思いやりが、「おせっかい」や「余計なお世話」にならないように、
さらに次の段階までの準備をしてから、忠恕の精神で「思いやり」の行動
をする必要がある。

2014年5月26日月曜日

山本能楽堂に教えて頂く能 その4 能舞台

山本能楽堂の山本様に
教えて頂いた、能の勉強
も今回で最終回です。
今日は、能舞台につい
てです。
能舞台について

能はもともと野外舞台
上演されていました。
明治以後電気の発明
によって、能舞台と客席
が一つの建物に入った
劇場形式である「能楽
堂」演じられるように
なりました。

能舞台は、三間四方           
(約6メートル四方)の
正方形の形をした本
舞台と、廊下のよう
な橋掛かりで構成さ
れ、客席の中に舞台
が突き出た形になっ           
ています
舞台の後方には老松
の絵が描かれ「鏡板」
と呼ばれています。それは上演
される能の内容と全く関係が
ありません。日本では、松の木
には神様が宿ると考えられて
いて、能が寺社で神の清しめ
のために上演されていた大昔
の名残だと思われています。
鏡板は、舞台前にあった松を
映している鏡であると考えられ
ています。

舞台の左側にある渡り廊下は「橋掛かり」といいます。能には亡霊や神
などの実在しない主人公が多いため、この世とあの世、あるいは遠い
場所を結ぶ架け橋の役割を担っています。幕の向こうはあの世であったり、
中国などの遠い国、あるいは天上と考えられていて、亡霊などが遠い世界
から橋掛かりを通ってこの世にやってくるとされています。
その長い距離を想像しやすくするために、橋掛か
りの前には三本の松があり、遠近法によって幕に
向かうほど背が低くなっています。
幕の向こうには「鏡の間」があり、そこでシテは装束を付け、鏡に向かって
精神を凝らし、能面をつけ、登場の時間を待ちます。

この遠近法は、目の錯覚を利用しての奥行観や広さを見せる方法として
とても面白いと思います。

また、能舞台の音響を良くするために、古くは
桃山時代より能舞台の下には瓶が据え置かれ
てきました。
瓶によって、足で踏む拍子の響きをよくするばかりではなく、笛や太鼓と
いった囃子の音、謡の声にも影響するといわれています。
山本能楽堂の舞台下にも大きな瓶が12個並べられています。
現在新しく作られる舞台には瓶が埋められることも少なく、
今では珍しいものとなりました。
 
能、日本の文化として、能舞台や面、役籍(パート)、
楽器すべてに細やかな考え方、そしてその徹底さ
は、後世に残して欲しい。
 
和婚ネットは、和の結婚式をどんどんと広げ、美しい日本の家族
作りのお手伝い、絆作りのお手伝いを使命として活動しています。
今回のこの山本能楽堂様との和の結婚式としてのプロジェクト
是非成功させたいと思います。能の勉強をして、文化を理解し
和の結婚式のプロデュースをする上で、「能と言う日本の文化」
までしっかりと新郎新婦様に家族に伝えさせて頂きます。
山本能楽堂様、山本先生、ご指導ありがとうございました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

2014年5月25日日曜日

山本能楽堂で教えて頂く能 その3 能の楽器

山本能楽堂の山本さんに能と言う   
芸能文化を教えて頂き、その三段
今日は、能の音楽についてです。

神前式や神道の神社の神事には、
雅楽と呼ばれる、笙、篳篥(ひちりき)
、竜笛(りゅうてき)の三管が有名な
楽器ですが、能は、また少し違い
ます。能の音楽は、謡(うたい)
と囃子(はやし)で構成されて
います。

の台詞は「謡」と呼ばれ、
室町期以前の古い日本語で書か
れているため、現代人にはわか
りづらいと思われます。しかし       
、言葉がわからなくても、能面
表情や装束の取り合わせを見
て、また能役者の謡の声を聞い
て、物語のムードを推測し、
を観賞することができます。

能の楽器の演奏は「囃子(は
やし)」といい、笛・小鼓・
大鼓・太鼓の四つの楽器から成
り立っています。三百年以上前に作られ、現在も現役で使われいる楽器が
たくさんあります。

能には、西洋音楽のような絶対音階はなく、能の謡の音の高さは毎回
異なります。四つの楽器も同じく絶対音階がなく、メロディーよりも
リズムをとるために用いられています。

笛は竹でできており、わざと調律をせず不安定
な音で、一本、一本音程がことなります。
小鼓は子馬のお腹からとった柔かい皮で作られ、
低い音を出し、湿気を好み、唾液などで常に
微調整が必要です。
大鼓は、小鼓とは正反対で、馬のお尻の堅い
でできており、開演の数時間前から炭火で乾燥し、
甲高い音を出します。
太鼓は牛の皮で作られ、二本の撥で打ちます。

打楽器である小鼓、大鼓と太鼓は、「よーー」などの「掛け声」によって、
お互いに確認し、間合いを取り、演奏を確認します。
他の舞台芸能と違って、能にはリハーサルがなく、その代わりに
「申し合わせ」と言われる打合せを本番の前一回だけ行います。
それは、一期一会のパフォーマンスとして、本番で芸と芸のぶつかり合い
による表現を大切にし、気泊の強さを表現してきたからで、これは、能が
芸能として六百五十年以上続いている理由の一つとされています。

「申し合わせ」と言うには、そのまま英語にもなり日本文化として
海外に伝わっています。一期一会の本番での芸のぶつかり合い
と言うのは、緊張感も高まりすごいことだと思います。

奥深いです。

2014年5月24日土曜日

山本能楽堂に教えて頂く能 その2 能の面

昨日の能の役籍(パート)のお話        
に続いて、今日は、能面の不思議
です。能面について教えて頂いた
ものを書きます。

能は仮面劇として知られています。
能面は無表情だとよくいわれます
が、それは間違った表現で、実際
は面を上下に傾かせることで様々     

に表情が変化し、喜びや悲しみを
表現することができます。

能面師は能面を非常に大切に扱い
ます。能面は、能のいのちそのも
だからです。シテは、能面を顔
につける前に、面に対して必ず
一礼をします。
それは、能面に宿る霊、そして
能面を大事に使ってくださった
先祖たちに対する感謝の気持ちを
表しています。能面の種類は細か      
わけると、二百種類以上になる
と言われていますが、大きく分け
と翁、尉、鬼神、怨霊、男、女
の六種類にわけることができます

仮面に霊が宿り、演じる役籍が、
その面と共に、演じ、舞う神秘は、
すごいです。                       

翁の面を見ていると、あのジブリ映
画「千と千尋の神隠し」を思いだす。
映画の中では、川の神様が、ヘドロ
になりお風呂にやってきて、主人公
にヘドロの栓を抜いてもらい、川の
人工的な汚れが、すべて吐き出せ
て、「ヨキカナー」と笑いながら天に         
昇って行くときのあの翁の面が、
とてもインパクトが強く残っていま
。だから、面を付けていると無
表情と言いながらもやはり、表情
はあるのだ、その瞬間は、手先の
動きや近くから見ると、表現者の
息使いまで含まれてます。

                             
品川神社の春祭りや秋祭りで見る          
神への奉納の舞に出てくる、お面
や、最近の余興で人気の大黒舞
の面にも、表情があり、その表情
は、動作、所作に連動している
のだと思います。

その面を見ることにより、非日常
となる、そして役柄にはその面が、
役者自身がかわろうとも、先祖、
先輩が付けてきた面、中の人間
役者が変わろうとも演技は伝統
を引き継ぐところに、神秘があり           
その面を代々つけるところに
良さが染み渡ります。

直接顔に付ける面だから、
役者として、伝統芸の練習を
繰り返しされるのだと思います
是非とも次世代に繋げて欲しい
舞、面である。


2014年5月23日金曜日

山本能楽堂に教えて頂く能 その1 能の役籍

山本能楽堂とのご縁が出来た事は     
前回のブログにおいて、紹介しまし
た。今日は、能について、山本能楽
堂さんより頂いた資料に基づき、
書いてみたいと思います

能を演じる能楽師は、それぞれ
の専門によってパート(役籍)
が分れています。能面をつけて
主人公を演じるのは、「シテ方」
という専門役です(①)。「シテ
方」は他に、ツレ役や、地謡
(コーラス)(②)、後見(③)
をつとめます。シテと応対しシテ
の演技を引き出す脇役は「ワキ方」(④⑤)と呼ばれ、多くの場合、
旅をする僧や天皇の使いの役などを演じ、舞台の右前の隅に座ります
能の前半部分と後半部分をつなぐため、ワキの質問に答える形で
その土地のいわれやシテにまつわる話を語る役は「狂言方」がつとめ
ます。また、楽器を演奏する四人の音楽家は「囃子方(はやし)」
といい、笛方(⑥)、小鼓方(⑦)、大鼓方(⑧)、太鼓方(⑨)
わかれます。能は厳密な分業制になっており、
例えばシテ方が楽器を演奏したり、狂言方が
ワキ方をつとめるといったことはありません。
一生涯同じパートをつとめることで、その芸
を深め精進していきます
 
能のこの言葉(シテ、ツレ、脇)は、他の世界でも使われている!!
「シテ」と言う、主人公の言葉は、金融の証券界において、使われる。仕手株
やシテ筋が動いたので、株の相場が動いた!などと使う。これはかつての
仕手筋が地方や中小の証券を取次にしていたためで、普段はほとんど注文
のない弱小証券が突然大量の注文を特定銘柄に集中させ始める事から
「主役(シテ)登場」と表現された事による。今日ではネット証券経由による
売買注文が中心になっていることから、かつてのような「仕手」は認識され
にくい状況にある。 シテ=主人公。
ツレも関東では、夫婦の片方を呼び、関西では、同性でも友人のことを
呼ぶのに、私のツレと言う。
 
能の種類について           
能は、シテが演じる役柄によって
神(しん)、男(なん)、(にょ)
、狂(きょう)、鬼(き)の五つの
ジャンルに分けることができます。
江戸時代には、この順番どおりに
一日に五番立(ごばんだて)、で
上演されてきました。
爽やかな朝の時間に神様
の能で始まり、夕闇迫る頃、鬼の能が演じられま
した。また「翁」という能は、
「能にして能にあらず」といわれ、
神様に捧げる能として特別に扱われます。
初番目もの(神)神仏の霊験を称える能。
脇能物ともいう。
二番目もの(男)戦の罪により羅道に
落ちた武士の能。修羅物とも。
三番目もの(女)女性が主役で優美な舞を
舞う能。髪物ともいう。
四番目もの(狂)ほかの分類に入らない能。
狂女物が多い。雑能とも。
五番目もの(鬼)鬼、天狗が主人公で威力
のあるものが多い。切能とも。
 
このような能のルールや、役割や内容のストーリーを勉強しておくと
本番の能をもっと楽しめる。
是非、日本の上方伝統芸能の能、追求したい。