2014年1月31日金曜日

『因果の道理』


蓮の花の写真を見て、高校時代
の仏教の授業で習った、
『因果の道理』
を思い出した。

「因」とは原因のこと
「果」とは結果のこと
「道理」とは、いつでもどこでも
成り立つ普遍的な法則のこと。
原因なしに起きる結果は絶対に
なく、原因があれば必ず結果が
生じる。どんな小さな結果にも、
必ず、それ相当の原因がある。

「道理」は、「三世十方を貫くもの」をいう。「三世十方」とは、過去世・現在世
・未来世の三世と、東・西・南・北・上・下・四維(南東、南西、北東、北西)の
十方のことで、「いつでも」「どこでも」=宇宙である。

「因果の道理」は、三世十方変わらぬものは、原因なしに起きる結果は絶対
にない、結果には、必ず原因があるということ。これを別の言い方で表現
すると、「因・縁・果の道理」という。それは、すべての「果」は、
「因」だけで起きるのではなく、「因」と和合する「縁」が必要だと説かれている。

例をだすと、「米」という「果」は、モミダネという「因」だけではできない。
モミダネという「因」と、土壌や水分、日光や空気などの「縁」が和合して
生まれる。コンクリートや氷の上に、モミダネを蒔いても米はできない。
「米」となる「縁」がないからだ。
このように、すべての「果」は、「因」と「縁」が和合
て生じると教えられるのが、「因縁果の道理」である。

北宋の儒者に蘇老泉(そろうせん)がいる、その「管仲論(かんちゅうろん)」に
ある言葉、

「功の成るは成るの日に成るに非ず。けだし必ず
由(よ)って起こる所あり。 禍のおこるはおこる日
におこらず。また必ず由って兆す所あり。」

何事も一朝一夕でならない。平素の努力の集積に
よって成功する。また、禍が起こるのも
その日になって急に起こるのではなく、
前から必ずその萌芽があるのだ、ということ。

人生は、ゴールがなかなか見えない、長い長いマラソンである。
昨日が、今日、今日が、明日に繋がるのである。
毎日、毎日をプラスエネルギー積み重ねていこう
漆を丹念に丹念に塗るように、塗り重ねていこう
さあ、今日もがんばろう。

日々の努力を惜しまず、努力は裏切らない。

2014年1月30日木曜日

『心に太陽を持て』

実家にいる頃、母と一緒に家の
屋上から、また家の中庭を望む
廊下から太陽に手を合わせた。

手を合わせた後、両手で輪を作り
、その輪の中から太陽を見た
その様にして、太陽のエネルギー
を身体全体で吸い込んだ事を
思い出す。

今も、朝日に向かい手を合わす。
『日拝』である
日拝の後、心にゆとりがもてて、人に
パワーを分けることができる。
まさに、太陽のパワー
太陽は万物を照らし続けて、自らを強く
健やかに養い続けて、一日たりとも休まない。
母から頂いた、ドイツの詩人シェーザル・フライシュレイン氏の
詩 『心に太陽を持て』(訳:山本有三。)を披露する。

心に太陽を持て
あらしがふこうと ふぶきがこようと
天には黒くも 地には争いが絶えなかろうと
いつも 心に太陽を持て

唇に歌を持て
軽く ほがらかに 自分のつとめ 自分のくらしに
よしや苦労が絶えなかろうと
いつも 唇に歌を持て

苦しんでいる人 なやんでいる人には
こう はげましてやろう
「勇気を失うな
 唇に歌を持て
 心に太陽を持て」

今日も太陽のように、明るく元気にがんばろう!


2014年1月29日水曜日

曹洞宗の開祖で、坐禅の道元

曹洞宗の開祖で、坐禅の道元の
著作である『正法眼蔵』から、特に
在家信徒への布教を念頭におき、
重要な点を抜粋したものに
、『修証義』(しゅしょう
ぎ)がある。

私の母方の実家が、曹洞宗でも
ありこの修証義に出会った。
この経本の中でも、人間、誰もが
人生は、一度きり!
大切に、感謝を持って
、思い切り生きよう!
書いているように、私には思える
好きな部分を今日は、ご紹介した
い。お経ではあるが、「修身」が、
書いてある。

第一章の総序の部分の一部

生を明(あき)らめ死を明(あき)
らむるは仏家一大事の因縁なり、           
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死
なし、但生死即ち涅槃(ねはん)と
心得て、生死として厭(いと)うべき
もなく、涅槃として欣(ねご)うべき
もなし(=歓ぶもなし)、この時初めて生死を離(はな)るる分あり、唯一
大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。

人身得ること難(かた)し、仏法値(お)うこと希(ま)れなり、今我等(われら)
宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたる
のみに非(あら)ず、遇(あ)い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の
善心(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし、最勝の善身を
徒(いたずら)らにして露命(ろめい)を無常の風に任すこと勿(なか)れ。

無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に
私に非ず、命は光陰(こういん)に移されて暫(しばら)くも停(とど)め
難し、紅顔(こうがん)いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)
なし、熟観(つらつらかん)ずる所に往事(おうじ)の再び逢(お)うべからざる
多し、無常忽(たちま)ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝
(こくおうだいじんしんじつじゅうぼくさいしちんぽう)たすくる無し、
唯独(ただひと)り黄泉に趣(おもむ)くのみなり、己(おのれ)に随(したが)い
行くは只是れ善悪業等のみなり。

<現代語訳>
 我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、
その真実をはっきり見極めるのが仏教者として最も根本的問題であります。
 生まれてから死ぬまで、我々は迷い苦しみのまっただ中に生きているよう
ですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏
(覚ったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死はないのです。
 ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃
(さとり)の境地と心得たらいいのであって、そうなると、嫌がり、嫌うべき生死
という迷いの生活もなく、願いを求めるべき涅槃(さとり)の境地というものも
ありません。こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ世界
から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。
 生を明らかにし死を明らかにする、ただこれこそが一番大事な根本問題
であるということに徹底しなさい。
 人間の身に生まれてくることは、非常に得難いことであり、その上、仏法
にめぐりあうことも滅多にないことです。我々は今、前世で行った善根の力
に助けられて、このように得難い人間の身に生まれてきたばかりでなく、滅多
にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
 生まれては死ぬ存在の中では、一番善(めぐま)れた生涯であり、最高に
すぐれた善(めぐま)れた身を無駄にして、露のようにはかないく消える命を
無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。
 死(無常)というものは、いつやってくるか、予想もつかないものです。草叢
に宿る命のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか全くわからないものです。
大体、自分のこの身体というものが、(因縁和合でできているもので)自分の
ものではありません。命はまた、光陰と共に先が短くなるもので、ちょっとの間
も引き止めておけるものではありません。少年の日の若さにあふれたあの顔は
どこへいってしまったのでしょう。探し求めようとしても、あとかたもありません。
よくよく観察してみると、過ぎ去ったことは、二度とめぐり逢えないことです。
 死(無常)が突然やってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も
妻子も財産も、手を貸してはくれるわけにはいかないのです。たった一人で
黄泉(あのよ)へ旅立つばかりです。どこまでも自分についてくるものといっては、
ただ自分が作った善行・悪行ばかりです。

2014年1月28日火曜日

日本の結婚式衣装を変遷を写真で見る

日本の結婚式衣装を近代の変遷で、
写真で見てみようと、社内研修で、
弊社のカメラマンの講師先生が、
集めてくれた写真を見てみたい。

最初の写真は、江戸時代末期の
いわゆる、家で行った、『祝言』の
写真。
当時は、嫁を迎い入れる家での
結婚式。床の間に、氏神様や天照
大御神や出雲大社の掛け軸を
掛けて、両家親戚縁者を呼んでの
人前式+披露宴のような形の
結婚式。新郎は、紋付袴、新婦は
着物(白無垢や色打掛)に綿帽子        
姿に、家族の結婚式で温かい。

明治時代において、江戸時代の家での結婚式
が残っていた時代に、明治33年5月10日
皇太子であった大正天皇と九条節子姫が皇居内
の賢所(天照大御神を祀る御殿で、一般では神社にあたる場所)
でとりおこなわれたご婚儀に由来しています
翌年にはこの皇室の婚儀を参考に現在の東京
大神宮が創設され、徐々に全国各地に普及して
いき、「挙式」と言う概念が日本人
に芽生える。
写真は、黒紋付きに、新婦は、黒の本引振袖、
そして文金高島田と角隠し。
やはり家の床の間に、神さまをお迎えしての
家での結婚式。
       
そして大正時代の写真を探して
みると、やはり、新郎は紋付袴に
新婦は、黒本引振袖に、徐々に
「祝言」と言う形から、「結婚式」
と言う祝い、セレモニーの形に
変化していっているのが、わかる。
呼ばれているゲストの衣装も
全て紋付羽織で日本の格調高
い結婚式の集合写真である。

昭和時代に移ると、今度は、
戦争の影響で、戦前、と戦後
の衣装は、変化してくる。新郎の
正装に、軍服が使われるように
なってくる。つまり、紋付袴の姿から
洋服へ変化する。
洋服に関しての正装のルールは、やはり
軍服から来ている。軍服のこのような長い
コート(フロックコート)が、新郎正装の原型
であり、移動手段に馬を使っていたことから、
衣装の前のところが、モーニングカットや
燕尾服のように、カットされて、足を出しやすく
上げやすくなっている。

この写真は、昭和16年に撮影されたものと
記録が残っている。新婦は、やはり黒の
本引振袖の姿に文金高島田と角隠し。

戦後は、都市部では核家族化や住宅事情に
より、自宅で祝言を挙げることが難しく、公共の
施設や広い会場をかりて披露宴を挙げるように  
なる。会場は、公民館や集会所、旅館、だった。

昭和39年の東京オリンピック、45年の大阪
万国博開催において、大型ホテルが、乱立
する。これらの施設をバンケット会場、披露宴
会場に利用するようになる。
「自宅の祝言」から公共施設での披露宴
それが、ホテルでの結婚式へと価値観が
変化していく。 衣装も、新郎は、モーニング
コート、新婦は、白無垢に角隠しの形へ

高度経済発展へ成長していく、日本経済と
ともに、結婚式もホテルにおいての豪華
結婚式へ変化していく。

ここより先は、つい最近の五十年。
十年~二十年で結婚式スタイルが変化していく
昭和40年代~昭和60年代
神前式、ホテルウエディング(ホテル内の神前式)徐々にキリスト教の教会
(ホテル内の教会)での結婚式の全盛期
平成元年代
バブルの絶頂から崩壊へ
ホテルから、徐々にレストランウエディング、本物の教会+レストランへ
平成10年代~平成20年代
レストランウエディングと地味婚へ、しだいに神前式が増えてくる

形(ハード)は、どんどんと変化、進化していくが、結婚式の衣装もそれに
あわせ、挙式スタイルに合わせて変化していく、披露宴スタイルにおいて
も、披露宴演出も変化することが、以上の写真の変化でよくわかる。

色々な結婚式の形を この15年間みてきたが、もっとも大切なのは、心である。
結婚式が、新郎新婦がそれぞれの大切な親や兄弟姉妹すべての方に感謝を伝え
祝福を頂く(承認をしてもらう)ことが、もっとも大切な節目作りとなる。





2014年1月27日月曜日

和のウエディングケーキ

和のウエディングケーキ
をお願いしますと
最近よくご注文される。
「和」のウエディングケーキって?
と思っていたが、あまりにも要望
される新郎新婦が多くなってきた
ので、パティシェに一緒に考えて
頂き、今までの「和」のウエディング
ケーキをまとめてみた。

一番大事な事は、和服に、着物の
姿の新郎新婦様が、ケーキカット
する際に似合うかどうかである

和食の料亭において、家族だけの
会食会をお手伝いする、少人数
結婚式には、このケーキカット
セレモニーがすごく
アットホーム感を演出
してくれる。

両家が、父、母、兄弟姉妹、伯父
伯母までの結婚式と言うと、大体の
人数が、両家合わせて20名ぐらい
である。 その場合、会食会の進行     
自身は、プロの司会者ではなく、
新郎の司会や新郎新婦の兄弟姉妹
に司会をお願いして、、、、、

その司会をフォローする、弊社オリ
ジナル席次表『盛り上げ君』が、
大活躍する。 『盛り上げ君』
が、目指す、家族だけの
会食会は、やはり全員
参加の会食会、どうしても
両家の家族だけが集まると、緊張感
がただよい、スタートする場面から      
1時間は、固い、、、お酒が程よく
まわり、皆の気持ちがすこし和らかく
成って来た頃には開宴後1時間後

すこしでも早くから、こ
の家族会が穏やかな
雰囲気にするには、
このウエディングケーキ
カットのセレモニーに家
族が一緒になることで       
ある。

新郎新婦の二人を通して
、両家の家族と家族が、
親戚になる瞬間!!
大切な瞬間の時間と空
間を作るお手伝い!
使命感を持って
お手伝いをしております。

2014年1月26日日曜日

吉祥文様 花ぐるま

吉祥文様の中でも私の好きなのは  
「花ぐるま」。綺麗な花を積んだもの
を牛車に乗せているのが、とても
雅に思います。

「花ぐるま」の文様を調べてみると
平安時代の貴族たちが乗っていた
牛車に花を積んだ美しい花車を
模様にしている。四季の花々を
描いているので、季節を問わずに
振袖や色打掛の文様に使われる。

よく似た車の文様としては、御所車
がある。「御所車」の文様は、京都
御所の周辺で使われた貴族の乗り
物、古典的な雅な文様として用いら
れる。御所車の車輪をデザイン化
した文様を『源氏車』と呼び、独立   
して使われる。

日本のキモノの歴史をひもとくと、その源は小袖
(こそで)にたどりつく。小袖は平安時代の頃、宮
中に仕えていた者たちの装束の1つで、表衣の
下に着ける下着的性質のものだった。それが
現在でいう小袖の形に定着したのは室町時代
前期の頃。 日本の染織品に見られ
る文様そのものは、時代をさか
のぼり、飛鳥・奈良時代に源を
求めることができる
その時代の違例は、正倉院や法隆寺に伝えられ
ているが、染織品はいたみやすく、実物が残って
いるものは少ない。しかし、伝統的な文様としては、
漆器・陶器・金属品、その他の工芸や絵画に見ら
れ、それらをもとに伝統的な文様が現代に受け継
がれてる。

正倉院や東大寺に収められている工芸品に見られる古典的な文様は、もともと中国から渡来したものが中心となります。亀甲(きっこう)・七宝(しっぽう)・鶴(つる)・宝相華(ほうそうげ)・鳳凰(ほうおう)・孔雀(くじゃく)・鴛鴦(おしどり)・鴨など多様です。
現在では、すっかり日本の文化に定着をしていて、日本独特の文様になっている。

平安時代中期(894年)、菅原道真の意見により遣唐使船は廃止された。そして、中国模倣から解放された日本には、貴族を中心とした日本独自の文化を完成させた。この新しい文化を和洋文化といい、純粋な日本文化の起源になる。

平安時代は女性的な文化の時代といわれ、染織の世界でも女性達が競って美しい染織品をつくり出した。「十二単」に表れている四季折々の草花の色彩の変化、そのハーモニー(重ねの色目)は、日本の自然からしか生まれてこないものといえる。

平安時代以降の文様として、この花ぐるまは、日本の貴族文化の中から生活の中から
出てきた美しい文様。着物の文様から日本の歴史や文化の流れが見えるのは楽しい。
しかし、長い着物の歴史は、勉強を深める必要がある。

2014年1月25日土曜日

猿田彦神社

平成26年、年初めには、必ず参拝する  
伊勢の猿田彦神社。今年も1月22日に
参拝が無事にでき、スタート準備万端!
小学校四年生の頃、10歳から参拝に
いかせて頂き、今年で35年になりまし
た。感謝の気持ちでいっぱいです。

お正月のご祈祷をしていただき、最後
に頂きます、お札やお供物の中に、
『御敷地の砂』を頂きます
この砂を家や店舗の四方
へ撒くのが、年初めの我
が家の行事です

猿田彦大神は天孫降臨の時、天と地       
の間にある難所天八衢(あめのやち
また)に待ち迎えて啓行(みちひらき)
をされ天照大御神の孫(天孫)ニニギ
ノミコトを高千穂へと導かれました
その後、本拠の地である伊勢の五十
鈴の川上に戻られ、ここを中心に広く
国土を開拓された地主神です。
千戦大神、白鬚大神、
道祖神、賽の神、庚申
さま等として津々浦々にお祀り
されています。                     

猿田彦神社には、相殿に大田命が
祀られてます。大田命は猿田彦大神
の御裔の神。垂仁天皇の御代に
皇女の倭姫命が神宮鎮祭の地を
求め諸国を巡られました。その時に
大田命がお迎えして、大神以来
守護して来た五十鈴の川上の霊域
を献上し、伊勢の神宮が創建され
ました。

ご社殿について、御本殿は二重
破風の妻入造りである「さだひこ
造り」。猿田彦大神の方除(八方
除)の御神徳にちなみ、屋根の上          
の鰹木や鳥居を始め柱や欄干
など八角形になっています

恒例の『御敷地の砂』の撒き方
土地や物が、猿田彦大神様の
御敷地の如く清らかになる様に
撒き清めるお砂です。
災いはツミやケガレが積み重な
って起きるものなので、定期的
に清めます。
清める撒き方は、まず東北の
隅から始めて右回りで清める。
アパートやマンションでは、
玄関やベランダなど外とつな    
がる場所や人の出入りがある
場所に撒く。
商売をしている家は、商家の
店舗の入り口に撒きます。

大切な行事がある日の朝に
玄関に撒いたりもします。

清らかな場所で、清らかな心、
明るい気持ちで、正しく、直く、
日々過ごしていく。
夫婦円満、家庭円満、
子供が健やかに過ごせるように。
いつもありがとうございます。



2014年1月24日金曜日

太刀と剣の御進徳

先日、太刀と剣のお話しをお聞きし、
興味を持ったのですが、
刀(かたな)、日本刀の事は、もの
すごく奥が深くまとまりません。
太刀は、佩く(はく)、
剣を刺す
この言葉でさえ、はじめて
お聞きした話で、なるほど、
と感心を致しました。

昨年、上野で国立博物館にて
おこなわれていた、
『国宝 大神社展』
に出品されていた、沢山の
刀をもっと詳しく見ておけば、とも思いました。日本の国宝とよばれる
物の、約10%は、日本刀とのこと。刀剣類は、日本では
古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、
平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり片刃の刀剣
のことを指す。
寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、
長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。

神道における、三種の神器である、
八咫鏡八尺瓊勾玉天叢雲剣(草薙剣)
のように、剣が、宝、太刀が、ご祭神、であることに、
その刀が持つ、御神徳を考える。
人の心を切る、邪念を切る、刀。 刀は、至誠なのである。
美術、精神、機能の三つを持つ。


先日の新聞に掲載されていた太刀の写真をスキャナーしました。
 
 
三鱗紋兵庫鎖太刀(北条太刀)(みつうろこもんひょうごぐさりのたち)
東京国立博物館 重要文化財 鎌倉時代 十三世紀の作  
静岡・三嶋大社旧蔵 
北条氏が奉納したと伝えられる ことから「北条太刀」と呼ぶ

三嶋大社旧蔵で、北条氏が奉納したと伝えることより「北条太刀」と呼ばれる。
全体に銀を多用した外装で、鞘も銀板を敷き、北条家の家紋である三鱗文を
毛彫鍍金であらわしている。上杉太刀と比べると、豪華な素材を使用している
が、連続した三鱗文を等間隔にあらわすなど質実な印象を与える。
刀身は無銘であるが、地刃の特徴から上杉太刀と同様に一文字派の製作と
考えられている。奉納品として製作されたと思われる太刀は、魳(かます)
切先となり、茎に反りがあり、細く薄くつくられるものが多いことが指摘されて
いるが、これは本作や上杉太刀も同様である。したがって、両作は当初から
奉納品として製作されたと思われる。
また、その製作年代は猪目を透かした瓶子形の足金物より、鎌倉時代中期を
下限とするものと思われる。
 
 
 毛抜形太刀(けぬきがたのたち)
伝菅公遺品 (福岡、大宰府天満宮蔵、重要文化財)
平安時代の作 天神・菅原道真の遺品として同宮に伝来 した。
平安・鎌倉時代に帰する例は極めて少なく 九州に伝来する稀有なひと振り
 
 大宰府天満宮は、菅原道真の墓所の上に社殿を造営し、その御霊を祀る神社であり、
菅公を祭神とする全国約一万二千社の総本宮である。本品は、学問・至誠の神である
菅原道真の御形見として太宰府天満宮に伝来した毛抜形太刀である。この太刀の名は、
柄の中央部に毛抜きの形を透かすことに由来する。衛府官人の兵仗ゆえに衛府太刀
とも呼ばれ、また貴人が外出する際にも携行されたことから、故実書には「野剣(のだち)」
とも記される。十世紀に登場したこの太刀は、鎬(しのぎ)を立たせて反りを有する点から
日本刀の原型と目されるが、先行する蕨手刀(わらびてとう)と同様、刀身の柄が共鉄と
なり、巾木鎺(はばき)と鍔(つば)を切先側から挿し嵌(はめる)点に特徴がある。
しかし本品は、刀身と柄を二か所で鋲(びょう)留している点が異例である。

春日大社に伝わる金地螺鈿毛抜形太刀(国宝)や伊勢神宮の伝藤原秀郷佩用の錦包
毛抜形太刀(重文)と同様、当初は華麗な拵(こしらえ)を備えていたものと思われる。
しかし、天正六年(1578年)に兵火に遭って社殿が焼亡した際、外装を損じて焼身と
なったのが誠に惜しまれる。とはいえ、罹災後も社宝として奉安されていたため、
刃こぼれや膨れ錆などは見あたらない。また、焼身ゆえに、かえってそのシルエットが
際立ち、反り高い丸棟鎬造の魳鋒で、しかも刃区上に鎺留めの小孔まで確認でき、
兜金形の柄頭や毛抜形の透かしとともに毛抜形太刀の特徴をよく伝えている。
平安・鎌倉時代に帰するこの太刀の古例はきわめて少なく、出土品を含めても十指に
満たない。そのうち本作は、菅公佩用の所伝と相まって九州に伝来する稀有な一振で
ある。

2014年1月23日木曜日

方位

方位と言うのは、勉強すると面白い。
商売をしていく中で、「鬼門」とか、
小さい時からよく両親が話をしていた
「ここの土地は、この方向が、鬼門や
から、こっちに入口やな、、、、」
鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら
:丑と寅の間)の方位のことである。
陰陽道では、鬼が出入りする方角で
あるとして、万事に忌むべき方角とし
ている。鬼門とは反対の、南西(坤、
ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらき
ん)と言い、この方角も忌み嫌われる。
鬼門は、古代中国の書物『山海経』に
ある物語が元となっており、北西(乾)
を「天門」、南西(坤)を「人門」、南東
(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」と
したことによる
陰陽道においては、北と西は陰、東と
は陽とされ、北東と南西は陰陽の
なるので、不安定になると説明さ
れる。

東西南北というように四方位、自分を
中心と考えると360度をどのように分
割するかと調べてみると沢山ある。
江戸時代よく、子の刻、丑の刻と干支
で時間を示すようにつまり、十二支で
十二分割をして考える方法。
八卦を使うとして、八分割にする
後天方位というのもある。人間が
自然にさからって暮らすことを勘案
できたといわれており、水と火の天       
地の循環を中心としています。つまり、
南に火(日・日照・離)を、北に水(月・
雨・坎)を配し、西北に乾、西南に坤を
配します。
十干を使って十分割と思うと、やはり
難しい。十干の考えでは、戊(つちの
え)と己(つちのと)は土として、中央
に来るから、八干しか使わない、十分
割というよりも、十二支・八卦・十干を
組み合わた二十四方向の方位の
考えがあった。この内、北(坎・子)、
東(震・卯)、南(離・午)、西(兌・酉)を
四方、北東(艮)、南東(巽)、南西(坤)
、北西(乾)を四維という。 
道開きの伊勢の猿田彦神社には、この二十四方位の「方位石」が境内にあった。

方位は、勉強すれば、深く、まだまだある、生まれ年などで起こる「八方塞」、
その為の「八方除け」、入口の方向が悪いからと「方違い」の考えなど沢山ある。
これは、八卦、易経を勉強していると卦を読むのに方位も関係するので、
勉強になる。「良縁」。「運気」、「開運」等 縁起をかつぐのは大切である。
また、自分自身でそれら運気をつかむのも大事!是非とも運気を、良縁を
つかみに、行こう。


 

2014年1月22日水曜日

倭は国のまほろば

倭は国のまほろば      

死に臨んだ倭建命は大和を
目前にし最後の地、鈴鹿の麓、
野煩野(のぼの)で、「国偲び
の歌」を詠んだ。

『倭は 國のまほろば たたなづく
 青垣 山隱れる 倭しうるはし』
(大和の国は国々の中で最も
優れた国だ。重なり合って青々と
した垣のように国を囲む山々。
(その山々に囲まれた)大和は美しい)

※はほろば語義                   
「素晴らしい場所」「住みやすい
場所」という意味の日本の古語。
「まほらば」「まほらま」ともいう。

倭の国は、今の奈良県、桜井市
なのか?
私のまほろばの地、大好きな三輪
神社のエリアか、、三輪のエリアは、
古墳も沢山あり、平野が広がり
周囲を山々が、囲い、山の水は、
綺麗で、朝日、夕日、花、木々、
小鳥、虫、川、とてものどかな
所だ。
約十年程前、母と三輪神社に
参拝に行ってた頃、大阪からの
高速道路は、法隆寺インター
でおり、そこからの自然が、広が
る風景が見たいと、田んぼの横
を車で走ったのを思い出す

田んぼの間を車でしばらく走って
いると、遠くに続く山並みに、一つ
原生林が、元気に山の端が、ギザ
ギザになっている山が見えてくる。
それが、三輪神社のご神体三輪山
である。その麓にある、大きな鳥居
がつぎに見えてくる。その田んぼの
横を走りにがら、平野の向こうに
連なる山々に向かって走るのが、
気持ちよく、綺麗だ。

日本には、沢山このまほろばの地がある。
八百万の神々がおられるそのような地に
もっと訪れてみたい。



 

 
 


2014年1月21日火曜日

国のため

国のために、と考える        
時は、ありますか?

私は、恥ずかしい話、39歳になって
初めて、生まれて初めて、自分は、
何か国の為になることができるのか?
と考えました。それは、39歳になって
始めて参拝した、靖国神社
の本殿に上がらせて
頂き、御鏡の前にて、
黙祷した時でした。

昨日の禊の後に参拝した、明治神宮
本殿の大前にておいての、正式参拝
時においても、国の為に何が出来て      
いるか?
と思い考えました。

やはり、国の為、人の為、と考えて
おられた天皇陛下や英霊の「祈念
や強い思い」は、後世に残るように
感じます。あの場にいかせて頂くと
その思いに触れるのです。

天皇陛下の名には、必ず『仁』と言う字がつくと、教えて頂いた事があります。 
それは、論語でも大事にしている「仁」:人は二人、人は一人では生きれない
他人を思う気持ち、他人、相手の気持ちに立つ、「恕」の心を幼い時より
一番大切に教えられると聞きました。
他を思う気持ち、それが、国を思う気持ちになる
のだと思います

英霊においても、自分の親、兄弟
姉妹、甥姪、祖父母、友人、恩師、
先生など、沢山の他の人を思い、
そして国を思ったのだと思います。
まだまだ、自分や自分の家族、自分
の会社、社員などといった、「我」の
強い気持ちを少しでも、広く、大きく
して、地域の為、地域の人、自分に
かかわってくださっている人々、
今までお世話になった人々、
小学校、中学校、高校、大学、社会
人,沢山の人に出会い、刺激を受け、
自分が『今の自分』を創ってきた、
頂いた、そのすべての人々を考える。
それらの人に恩返しをするそのことが、国のために何かする、
社会に恩返しをするに繋がるように考えます。

まだまだ、小さい力ではありますが、この靖国神社、明治神宮において
感じた、考えさせて頂いた「国のため」と言う、気持ちを、
自分に正直に、自分の人生の中で、しっかりと形にしていきたいと強く思います。

昨日の大寒禊は、感謝いっぱいの禊でした。この禊に参加出来た事全てに感謝しました。
 
 

2014年1月20日月曜日

「鶴」のストーリー

「鶴」のストーリー            
昔、一羽のケガをした雄鶴が
いました。傷の手当をしようと
保護すると、妻の雌鶴が心配
そうに上空をまわりながら鳴い
ていたそうです。その後、月日
が流れて冬が来ても、雌鶴は
その場を離れることなく、雄鶴
の帰りを待ち続けた、、、。

鶴は夫婦になると決して別れる
ことなく一生涯添いとげると
いわれる愛情の深い鳥と言わ
れています。

そんなストーリーから、花嫁が
結婚式の際に着用する衣装          
には、夫婦鶴の柄が多いので
す。寿ぎの綺麗な意味のこ
もった鶴の柄は、やはり幸せ
吉祥模様ですね。

華やかな結婚式を、華燭の典(かいしょくのてん)
とも呼びます。「華燭」は、「華やかなともしび」と
の意を表すことから、「婚礼の儀式の席上の
ともしび」を意味します。中国では樺(かば)の
灯火を華燭と言い、途中で消えないので縁起が
良いとされ、それが華燭のの由来とされる。

日本においては、「華燭典」という言葉の由来
になった、結婚式に一対の絵ロウソク
灯し、結びの盃を挙げたとくに、
「会津絵ろうそく」が「華燭」と呼ばれる
会津絵ろうそくは、一本一本に菊や藤、
牡丹などの草花の絵が色鮮やかに描
かれた伝統工芸品で500年の歴史を
持つ。江戸時代には最高級品の絵ろ
うそくとして、参勤交代の度に江戸に
持参され、禁裏、公家へ献上したり、
諸国大名へ売られたりし、仏事や婚礼
などの冠婚葬祭用として使われた。
昔は挙式披露宴を家でおこなうこと
が多く、日が落ちてから大勢の客を
招いての祝宴演出する道具として
絵ろうそくが使われ、その華やかな
様子を例えて「華燭の典」と呼ばれた。

結婚式に着用する着物の柄、また結婚式の
スピーチに使う言葉、日本の伝統や言葉には、
さまざまな綺麗な意味、深い由来があり、
美しいです。鶴と華燭の話でした。

2014年1月19日日曜日

丙午(ひのえうま)生まれの迷信

丙午(ひのえうま)生まれの     
迷信の話が、昨日のテレビ
番組で話されていた。
丙午は、調度、私の三歳年
上で、中学生の時に、丙午
の女性は気が強いから、
それを嫌い、子供の数が、
少ないとよく聞きました。

この迷信が何なのかを興味
を持ち、調べてみました。
丙午生まれの、『八百屋
お七(やおやおしち)』
、関係している。

江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、
恋人に会いたい」一心で放火事件を
起こし火刑に処されたとされる少女である。

井原西鶴の『好色五人女』取り上げられたことで
広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な
文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の
主人公になっている。

干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。

この迷信は昭和の時代になってさらに強く、1966年(昭和41年)の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった。
丙午は、60年に一度回ってくる、次の2026年まで、この迷信の影響が続くとは、あまり思えない。それにしても、文学や歌舞伎、文楽、様々な日本の文芸・演芸により日本全国に広がり、また昭和になっても影響をされる。すごい物語があるのだと感心した。 しかし、たとえ迷信だとしても、いざこの少子化の世の中にいおいて、子供を授かるとするならば、時期を選ぶ人の気持ちもよくわかる。
 

2014年1月18日土曜日

正月において、中條先生より頂きました言葉

    
正月において、恩師  
中條先生より頂き
ました、社長として
の責務を果たす
言葉。

日本陸軍士官学校
時代の作戦綱領
からの言葉です。

指揮官は、軍隊指
の中枢にして
又団結の核心なり
故に、常時熾烈
(しれつ)なる責任
観念及び鞏固(きょ
うこ)なる意志を
以てその職責を遂行
と共に、邁(こうまい)なる徳性を備え、部下と苦楽を俱(とも)にし
率先躬行(そっせんきゅうこう)軍隊の儀表(ぎひょう)として
その尊信(そんしん)を受け
剱電弾雨(けんでんだんう)の間に立ち
勇猛沈着(ゆうもうちんちゃく)
部下をして仰ぎて富嶽(ふがく)の重きを感ぜしめざるべからず

私達は、覚悟を持って自らの仕事を通じて世の中に
貢献する。そして、日本の国を守り、築いた祖先に負けぬ
よう、切磋琢磨と勤勉に、努力するのである。
社長は、会社の代表として、その社員一人一人が、
人間として成長できるように
育て守る責務がある
平成二十六年改めて邁進してまいります。




2014年1月17日金曜日

健康とは、健体(けんたい)と康心(こうしん)

健康とは、健体(けんたい:
すこやかな体)と康心(こう
しん:やすらかな心)のこと
ある。

ここで、先日読んだ、ドイツの哲学者
カントの話を紹介する。
カントは、生まれつき「くる病」であった。
背中にコブがあり、脈拍は高く、ぜんそく
だったのである。
ある日、父に連れて医者に診てもらった。

その医師は、カントの顔を見ながら、
言った。その言葉がカントを大哲学者に
するきっかけとなった。

「気の毒だな、あなたは。しかし、気の毒だと思うのは、体を見ただけのことだよ。
考えてごらん。体はなるほど気の毒だ。それは見れば分かる。だが、心はどうでも
ないだろう。心までもせむしで息が苦しいなら別だが、心はどうでもないだろう。

苦しい辛いと言ったところで、この苦しい辛いが治るものじゃない。 あなたが、苦しい
辛いと言えば、お父さん、お母さんだってやはり苦しい。言えば言う程、みんなが
余計に苦しくなるだろう。苦しい辛いと言うその口で、心の丈夫なことを喜びと感謝に
考えればいい。丈夫な心のお蔭で死なずに生きているじゃないか。死なずに生きて
いるのは丈夫な心のお蔭なんだから、それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。

カントは医師に言われたことを考えた。
「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、とあの医師は言ったが、
俺はいままで、喜んだことも感謝したことも一遍もない。それを言えというんだから
言ってみよう。そして、心と体とどっちが本当の自分なのかを考えてみよう。
それが分かっただけでも、世の中のために少しはいいことになりはしないか」

健康とは、健体と康心のことである。体を健やかに
保つこと。それは、天地から体を与えられた人間の
務めである。そしてそれ以上に大事なのが、
心を康らかに保つ事だ。体が丈夫でも心が康らか
でなかったら、健康とはいえない。いや、たとえ体
が病弱でも心が康らかなら、生命は健やかである。

平成26年1月、心と体の健康を考える機会として、、
今年も一年間 心と体を鍛え、走りぬきたい。

2014年1月16日木曜日

『日本神話にでてくる』、オノゴロ島

先日、友人から『オノゴロ島の         
写真を撮って来ました。』と、
写真を頂きました。
庫県、淡路島の洲本から
見えるらしいです。
あのオノゴロ島!と、
感動しました。

オノゴロ島、又はオノコロ島
とは、日本神話、古事記や
日本書紀に登場する島。
特にイザナギノミコト・イザナ
ミノミコトによる国生み神話で
知られ、神々がつくり出した
最初の島となっている。

『古事記』では、
淤能碁呂島(おの
ごろじま)
『日本書記』では、
磤馭慮島(おのころ
じま、初字は「石殷」         
で一字)と表記する。

オノゴロ島は、自凝島とも表記
され、「自(おの)ずから凝り固
まってできた島」の意味である

イザナギノミコトとイザナミノミコト
が、国生みの際に、「天の浮橋
(あめのうきはし)」に立ち、
天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も
出来ていない海原に下ろし、
「こをろこをろ」とかき回し矛を
持ち上げると、滴り落ちた潮が
積もり重なって島となった。
これがオノゴロ島である。
オノゴロ島に降りた二神は、
「天の御柱(みはしら)」と「八尋
殿(やひろどの:広大な殿舎)」
を見立てて、イザナギノミコトは
左回りにイザナミノミコトは右回り
に天の御柱を巡り、出会った所で
相手の魅力を褒めあい、この島
で成婚する。

なんて綺麗な写真!遠くに見えるのが、オノゴロ島です。
写真を撮ったところは、淡路島の洲本のシオン山という
ところらしいです。綺麗です。

日本の神話の勉強をして、実際の場所があり、
このような不思議と綺麗な国、日本!大切に
この『日本の神話』を後世に引き継ぎたいですね。

2014年1月15日水曜日

「和食」を構成する四つの要素。

ユネスコの無形文化遺産に登録
された、「和食」。それは日本が
守るべき「日本文化」である。
「和食」を改めて、勉強する。

『和食を構成する四つの要素』

一つは、「食材」
四季が明確で雨が多い、温帯に
属する日本。その気候を生かして
収穫される農作物は稲を中心に、
野菜や山菜、きのこなど多様化
また、日本は黒潮と親潮がぶつか
ることで豊かな漁場となる海に          
囲まれている。そのため魚種が
多く、魚食文化が育まれた。

二つは、「料理」
水を豊富に使えることで発達した
蒸す、茹でる、煮るなどの
調理法や、種類豊富な魚を処理
するのに適した庖丁などの調理
器具、そして野菜と魚介中心の
食事をおいしく食べるために工夫
されただし(出汁)などが、「和食」
の料理を支えている。

三つは、「栄養」
和食は比較的低カロリーで、各種
の栄養素をバランスよく摂取しや
すい。

                        
四つは、「もてなし」             
お客様を大切に迎える心持ちは、
単なる客に対するサービスだけ
ではない。料理を味わい、床の間
のしつらいや食器などを鑑賞する
ことで客も主人をねぎらうのである。
「いただきます」「ごちそうさま」
と感謝することから、もてなす側
も満ち足りた心になる。

箸づかいやふるまい、季節や思い
を演出するしつらいと、それを鑑賞
する態度。食事のマナーや食の場          
に施された趣向を理解し、お互いを
思いやる心が、「和食」の精神である。

毎日頂いている和食でありながら
普段考えている以上の無形有形
の文化が残っている「和食」
これは、普段の婚礼の仕事
おいても共通すること
である。大切に勉強し、
継承したい文化である。







2014年1月14日火曜日

「和をもって貴しとなす」、神道と仏教が上手く共存できる国、日本の源流。

先日、「日本がもっと好きになる」      
という小冊子を頂きました。
それを読んでいく中で、
「本当に素晴らしい国、日本」
「その誇り高く生きた日本人の歴史」
を改めて感じ入りました。
これらを伝えるのは、我々の使命
だと、さらに気持ちが強くなった。

日本の神話、縄文時代の日本人の
生き方、などを勉強していくと、
日本人は、自然との共生の中で
育まれた感謝の心を持っている。
日本人は、自然を征服するという
考えでなく、自然と対話をし、豊富な
海の幸、山の幸に感謝しつつ、それ
らを上手に頂きながら暮らしてきた。

これは、まさに、聖徳太子の
「和をもって貴しと為す、
忤(さか)らふこと無き
を宗と為す」    
          
というと言う、国家の道徳規範である
十七条憲法の第一条に記されたこの
言葉があてはまる。

「和の精神」を大切にする日本人を知る
為に、今日は、聖徳太子について、
太子が行ってきた沢山の事を、まとめて
みた。日本においての神道と仏教の
共存の歴史がここにあることがわかる。

太子の生まれた背景を見ると、日本に
仏教が伝来した頃であり、その仏教を
巡り対立が深まっていた。

大和朝廷においての
軍事、宗教を司った物部氏は神道を重んじ、
財政管理を担当し、渡来人を積極的に保護し、天皇家(大王)と密接な婚姻関係を
築く蘇我氏は、仏教を推進した。この物部氏と蘇我氏の対立している中、蘇我馬子
の姪・穴穂部間人皇女と橘豊日皇子(後の用明天皇)の長子として生を受ける。

太子は、推古天皇の摂政として大活躍する。冠位十二階を定め、家柄や身分より個人
の能力を重視した人材登用を行う。これは、天皇を頂点とした中央集権化になる。
十二冠位は、儒教思想があり、「仁、礼、信、義、智」とそれを包括する「徳」を最上位
し、「大」、「小」を設けて十二段階とした。

十七条憲法は仏教思想を根底にすえ、上下の秩序の遵守を旨とする儒教思想や、
信賞必罰を旨とする法家思想などを取り入れて作成された。天皇を頂点とし、官と民
が互いの領域を越えず、一丸となって誠意と精励を尽くすという、仏国浄土的な
理想国家が描かれている。

また、太子は新しい国造りのために、中国の隋に遣隋使を派遣し、進んだ制度や文化
を導入した。その際、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
(日が昇る国の天子から、日が沈む国の天子にあてて手紙を送ります。ご無事で
おすごしですか)という手紙を皇帝の煬帝に送っている。 そこには小国として、大国に
学ぶべきことは学ぶ姿勢をとりながらも、独立国としては中国とは対等であるという
気概が込められていた。

610年2月1日、推古天皇の神衹祭祀の詔を発布。
「群臣とも一致団結して我国の神々を祀るべし」と皇族、群臣に対して、日本固有の
神々を祀ることを義務ずけた。

神道と仏教が共存しながら今日にいたる源流ともなる
基本形をつくったのが聖徳太子だった。